中条の歴史・史跡 (あいうえお順)
中条には深くて大きな歴史や史跡などすばらしい文化がいっぱいあります。それはまた未来を創っていく大きな力です。
円通寺(えんつうじ)
中町にある円通寺の約1万㎡の広大な屋敷の四方を囲む見事な石垣は、明治末期に衆議院議員であった岡田龍松(おかだりゅうまつ)がつくったものです。
昭和32年に桂沢山(けいたくさん)円通寺が上原(かんぱら)の桂沢(かつらさわ)から、現在地に移ってきました。その年に中条保育園の前身である季節保育所が開かれています。円通寺は妻在(つまり)百三十三番札所の百三十番の霊場となっています。
大井田城跡(おおいだじょうせき)
大井田経隆(おおいだつねたか)ら妻有郷(つまりごう)の新田一族が新田義貞の鎌倉幕府討幕の挙兵に真っ先に駆けつけ勇猛果敢な活躍をしたことは「太平記(たいへいき)」に詳しく記されています。その大井田氏の本拠は現在県指定史跡となっている大井田城跡であったと推定されています。
標高308.1mの山頂からは信濃川や対岸の節黒城跡(ふしぐろじょうせき)などが一望でき、山腹には空掘(からぼり)や帯郭(おびくるわ)など攻撃を防ぐための施設がよく残っています。平成3年には大井田氏発祥の地であるこの地において、全国の大井田氏とそのゆかりの人々に呼びかけて第1回全国大井田氏サミットが開催されました。
大井田十八城(おおいだじゅうはちじょう)
大井田城跡をとりまくように大井田十八城と呼ばれる多くの支城(しじょう)が設けられています。小高い山々には「花水城跡(はなみずじょうせき)」、「大峰城跡(おおみねじょうせき)」、「陣ヶ轟城跡(じんがとどじょうせき)」、「峰の薬師城跡(みねのやくしじょうせき)」などの砦があり、平場には上町(かんまち)の武士団屋敷「笹山館跡(ささやまかんせき)」、信濃川に面する段丘の端には、峠の「下狐城跡(しもきつねじょうせき)」、島の「狐城跡(きつねじょうせき)」、中町の「坪野館跡(つぼのかんせき)」、旭町の「高橋館跡(たかはしかんせき)」などの館があります。これらの山城、武士団屋敷、館が一体となって大井田城を守っていたと考えられています。
桂公園(かつらこうえん)
財団法人桂会(かつらかい)がつくった交通公園で、昭和48年に開園しました。
ここは中町に移る前の円通寺(えんつうじ)の境内(けいだい)で、幕末から明治にかけて多くの人材を育てた由緒(ゆいしょ)ある地です。この公園には地域の人たちの交通安全と子どもたちが健やか(すこやか)に育つようにという願いが込められています。
広場の中央にたっている「希望の像」は、当時十日町高校教諭だった堀田正(ほりたただし)さんの作品で、開園記念像です。交通公園から裏山にかけて1,500mのサイクリングコースと遊歩道があります。
高龗神社(こうりゅうじんじゃ)<りょうさま>
縄文の昔から、森は神そのものであり聖なる場であると考えられ、森のない鎮守(ちんじゅ)さまは考えられませんでした。高龗神社はこのような「神の原型」を伝えるすぐれた中条の文化財です。
新田義貞(にったよしさだ)に従い、海神竜王の「稲村ケ崎(いなむらがさき)のふしぎ」を目の前で見た大井田経隆(おおいだつねたか)が中条の城山のふもとに竜神を祭ったのが始めだと伝えられています。日でりの時雨ごいすると、たちまち雨を降らせてくれるため農業の神としても信仰されています。
伝説によれば竜神さまは畑のゴマの葉で目を傷めて片目となってしまい、それ以降境内(けいだい)の杉の枝は片側しかなくなり、池の鯉も片目になったということです。
謎の西明寺(さいみょうじ)
昭和56年から始まった笹山遺跡の発掘調査で、縄文時代の遺跡の他に500~600年前と思われる中世の寺院跡か豪族の居館跡と考えられる遺構や遺物が発見されました。遺跡の南側を流れている川は「歳(才)明寺川(さいみょうじがわ)」と呼ばれていますが「西明寺川」とも書き、この川のほとりにむかし西明寺というお寺があったので名付けられたといわれています。
また、今から200年ほど前に書かれた地誌(ちし)に、『昔、中条に城主がいた頃、前の執権最明寺入道時頼公が諸国巡回の折にこの地を訪れ、この寺で休息されたので西明寺といい、近くを流れる川も西明寺川と呼ぶようになった。今は寺跡は畑になっており、寺の縁起(えんぎ)等の記録は何も残っていないので確かなことはわからず、ただ言い伝えだけである。』とあります。
笹山遺跡(ささやまいせき)
笹山遺跡は標高170m~180mの信濃川の河岸段丘(かがんだんきゅう)上にあります。昭和55年~60年にかけて笹山野球場、陸上競技場などの建設に伴って7次にわたる発掘調査が行われました。
合計15,460㎡の範囲が調査され、石組炉(いしぐみろ)、埋設土器(まいせつどき)などの遺構(いこう)が数多く見つかったほか、大量の土器、石器などが出土し、遺跡の一部は平成4年に市の史跡に指定されました。また、中世の集落跡も発見されています。
縄文の遺構は笹山縄文館(スポーツハウス)付近を中心として長軸110m、短軸100mの馬蹄形(ばていけい)に分布しており、縄文時代中期中葉~末葉(今から約4,500年~4,000年前)を中心とする大規模な集落であったことが明らかになり、縄文の聖地であり中心地のひとつであった可能性が言われています。
笹山遺跡で発掘された火焔型土器群をはじめとする出土品928点は、平成11年6月7日に新潟県初の国宝に指定されました。
長泉寺(ちょうせんじ)
伝承によれば鎌倉時代、執権北条時頼(しっけんほうじょうときより)(最明寺入道(さいみょうじにゅうどう))が立ち寄り、西明寺川(さいみょうじがわ)のほとりに観音像を祭られたとあります。また、北条時頼がくださったと言われる銅(あかがね)の水差しが大切に保管されています。
龍王山(りゅうおうざん)長泉寺(ちょうせんじ)が現在地に開山したのは明暦(めいれき)三年(1657)のことです。明治初年に学制がしかれた時、中条校が明治7年2月に長泉寺に開設され、学校教育発祥の地となっています。中条の教育を語る時、円通寺と並んで忘れてはならない場所です。
謎の栃川館(とちこうやかた)(伝説)
大井田城跡の下を流れる馬(ま)さくり川の上流に三方を山に囲まれた「栃川館」があったという言い伝えがあります。鎌倉時代に五代執権(しっけん)北条時頼(ほうじょうときより)が出家(しゅっけ)して最明寺入道(さいみょうじにゅうどう)と名乗り諸国を回った際にこの中条を訪れ、大雨にあって土地の人に救われてこの栃川館に宿をとり、世話になったという伝承(でんしょう)が残っています。
峰の薬師(みねのやくし)
近くの大峰山、陣ヶ轟(じんがとど)などとともに前述の大井田十八城と呼ばれた城跡のひとつで、今でも標高375mの山頂には整地した郭(くるわ)の跡と尾根筋に設けられた空掘を見ることができます。いつの頃からか薬師如来像(やくしにょらいぞう)がまつられて「峰の薬師さま」と呼ばれています。
平成3年秋に地域の多くの人々の浄財(じょうざい)を集めてお堂が建立(こんりゅう)されました。妻有の郷(つまりのさと)が一望(いちぼう)できるすばらしいながめの場所です。
中条のそれぞれの地域にはすばらしい歴史や史跡があります。別ページの「うまし里中条・ウォッチングマップ」などを見ながら、ぜひ訪れてみてください
こ うりゅう
こ うりゅう