<あいうえお順に掲載しています。>
中条のすごい人たち
富士山を生涯かけて撮り続けた世界的写真家。単なる風景写真にとどまらない心の原風景ともいえるその写真は世界中の人々を感動させ、イギリスではナイトの称号を受けています。千円札を見てください。そこに印刷されている富士山の絵は岡田紅陽の写真「湖畔の春」なのです。
雲は富士を夢にあそばせ、ロマンにみちびき、
富士は雲によって目醒め、雲によって眠る。
新潟県の初代民選知事として活躍し、「農は国の本也」の理念を持って、農業振興や水力発電事業で大きな業績を残しました。政治家としてだけでなく実業家としても有名です。写真家の岡田紅陽は岡田正平の弟です。
絵をよくし、雅号(がごう)を耕雲(こううん)と称(しょう)しました。最初の中魚沼郡長で、その後県会議員、衆議院議員などを務めました。社会慈善事業に尽くした人であり、岡田正平、岡田紅陽の父です。
幕末に町医者として江戸中にその名を知られた名医であり、現代においても漢方の最高峰と称されています。たくさんの著作がありますが特に「類聚方広義(るいじゅうほうこうぎ)」は名著中の名著で、漢方を学ぶ人は誰もがこの本を通らねばならないといわれます。
将軍徳川家茂(とくがわいえもち)から御典医(ごてんい)となるよう請(こ)われた時、今まで通り庶民(しょみん)の診療もできること、いつもお城にいるのではなく用があるときだけとすること、御典医は丸坊主にすることになっているが頭をそらないでいいこと、この3つの条件を認めさせたことは有名です。
尾台榕堂は中条下町(しんまち)の小杉家に生まれ、幼名を四郎治(しろうじ)と言います。江戸に出て尾台浅嶽(おだいせんがく)の元で修業し、後に尾台家を継ぎました。
尾台榕堂の偉大さは傑出(けっしゅつ)した名医であるとともに、人間愛にあふれ、心に仁を持って治療にあたり貧しい人であっても親切をつくした仁医であったことです。
医師・杉本周楨(すぎもとしゅうてい)の長男として中条新田に生まれました。14歳の時から父に医学を学び、20歳になると江戸に出て尾台榕堂の塾「尚古堂(しょうこどう)」に入門して榕堂の元で漢方の研鑽(けんさん)に努めました。3年後に帰郷して医業にはげみましたが、杉本周徳もまた尾台榕堂と同じく貧しい人からは礼金を取らずに治療する仁医でした。
医者のかたわら貧しい人たちの救済など社会事業につくすとともに地域の教育、文化の発展に大きく貢献しました。
鎌倉幕府の名執権(めいしっけん)とうたわれた北条時頼は執権職を10年務め、30才の若さで出家(しゅっけ)して最明寺入道時頼と号しました。時頼は入道してから身分を隠して諸国を巡遊(じゅんゆう)し、地方の実情を観察するとともに、困窮(こんきゅう)しているものを救ったという回国説話(かいこくせつわ)が数多く残されています。
この中条にも昔から最明寺入道時頼との関わりが伝承されています。「謎の西明寺」でもふれましたように、時頼公が諸国巡回の折にこの中条を訪れ、笹山にあったお寺で休息されたので西明寺と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
また、栃川館(とちこうやかた)にかかる伝承では、時頼公一行が諸国巡察の折に、西明寺川の付近で水難(大雨)にあわれ(あるいは賊に襲われ)、笹屋徳助(ささやとくすけ)(現、樋熊氏)に救われて栃川館に宿をとり、世話になったお礼に銅(あかがね)の水差しを置いていったといわれています。(現在、水差しは杉本周徳(すぎもとしゅうとく)の直筆の文が書かれた桐箱に収められ、長泉寺(ちょうせんじ)に保存されています。)樋熊氏は中条から時頼公一行を稲倉(いなくら)谷の宝蔵寺(ほうぞうじ)(現魚沼市堀之内上稲倉)まで道案内したと伝えられています。
◇ 「中条の宝もの」を書くにあたって、下記の本や資料を参考とさせていただき、また、引用させていただきました。中条公民館にもありますので、みなさんもぜひ読んでいただけたらと思います。(あいうえお順 敬称略)
◆ウォッチングマップ「うまし里中条」 製作:集団ルーペ
◆「越後妻有が生んだ漢方の巨星 尾台榕堂物語」 発行:榕堂会
◆「大井田城物語」 著者:佐野良吉 発行:全国大井田氏サミット実行委員会
◆「KOYO OKADA」 生誕百年記念 岡田紅陽展
◆“西明寺の謎” 「妻有郷の歴史散歩」より 著者:佐野良吉
◆「出土品が語る新潟の歴史」 発行:十日町市教育委員会ほか
◆「図録 笹山遺跡」 発行:十日町市博物館
◆「妻有郷人物傳」 著者:佐野良吉、須藤重夫、岡田民雄ほか 発行:週報とおかまち社
◆“栃河城” 「つまり 第33号」より 著者:上村博真
◆「中条再発見」 著者:星名武男はじめ実行委員の方々 発行:中条小学校創立130周年記念事業実行委員会 中条公民館