北条時頼(ほうじょうときより)最明寺入道(さいみょうじにゅうどう)伝説

鎌倉幕府の名執権(めいしっけん)とうたわれた北条時頼は執権職を10年務め、30才の若さで出家(しゅっけ)して最明寺入道時頼と号しました。時頼は入道してから身分を隠して諸国を巡遊(じゅんゆう)し、地方の実情を観察するとともに、困窮(こんきゅう)しているものを救ったという回国説話(かいこくせつわ)が数多く残されています。

この中条にも昔から最明寺入道時頼との関わりが伝承されています。「謎の西明寺」でもふれましたように、時頼公が諸国巡回の折にこの中条を訪れ、笹山にあったお寺で休息されたので西明寺と呼ばれるようになったと言い伝えられています。

また、栃川館(とちこうやかた)にかかる伝承では、時頼公一行が諸国巡察の折に、西明寺川の付近で水難(大雨)にあわれ(あるいは賊に襲われ)、笹屋徳助(ささやとくすけ)(現、樋熊氏)に救われて栃川館に宿をとり、世話になったお礼に銅(あかがね)の水差しを置いていったといわれています。(現在、水差しは杉本周徳(すぎもとしゅうとく)の直筆の文が書かれた桐箱に収められ、長泉寺(ちょうせんじ)に保存されています。)樋熊氏は中条から時頼公一行を稲倉(いなくら)谷の宝蔵寺(ほうぞうじ)(現魚沼市堀之内上稲倉)まで道案内したと伝えられています。